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2022-08

ちょっと外れた俺とネコ  『序章』

 
 どこにでもあるような、ないような。
 それはそうだろう、人生なんて似たものがあっても同じものなんてひとつとしてない。ドッペルゲンガーだって、顔が同じでそれだけなんだから。
 一瞬、風が凪いだ。
 音も運ばれなくなって、ごろん、と彼は寝返りを打つ。
 青空を見上げる。
 学校の屋上、誰も寄り付こうとしないのは鳥が多いから。
 糞でも当てられた日には、そのまま帰りたくもなる。実際、彼はそうして帰ったことが幾度となくある。
 何でこんなところにいるんだろう、なんてことだって何回も考えた。
 考えた結果はいつもおなじ。面倒くさいから。それに尽きる。周りにもそう言っては悟ったような口調で、大人ぶる。
 「俺っていわゆる不良だよな?」とは彼の言葉。
 彼はわからないのだ。自分がどうしてめんどくさいと思って、行動した結果がこんな鳥の糞しか落ちてこないような屋上なんかにいるのかということが。
 「おやかたー、空から女の子が降ってきたよっと」
 上半身を起こし、首を軽く鳴らす。
 思った以上に鳴って、彼はすこし引く。今度は腰をひねってみると、それはコンクリートの床なんかに寝てるからだろうか、ごきごき、と小気味よく関節が鳴った。
 欠伸を一つして階下を眺めると、運動場ではどこかのクラスがせっせと走っているのが見て取れた。
 「おーおー。頑張れ少年少女よ」
 それが後輩なのか先輩なのかもわからず呟く。
 腕時計に目をやると、あとこの授業20分と午後の授業がある。帰ってしまおうか、といつものようにぼんやりと考えて雲を観察する。
 水平線なんて綺麗なものは見えないし、山は近いが蚊が多い。
 入道雲が学校の真後ろにまで迫ってきていて、馬鹿みたいに口をあけて上の方を見やる。数匹の鳥が影になって入道雲に映っている。
 「くぁ …… 」
 もう一度欠伸をする。
 「眠い」とそうとだけ言ってまた寝ころび、寝息を立てて寝てしまった。
 
 
 「あいたっ!?」
 突然の痛みに飛び起きると、彼の頭を上靴で小突く女子がいた。
 彼は思った。
 飛び起きなきゃパンツ見れたかもしれない、と。
 「おぅ。少年、どうしたよ?」と彼女は笑う。彼は恨めしそうに蹴られた額をさすりながら彼女を睨みあげた。未だにその不敵な笑いは顔から剥がれず、へらへらとしている。
 「蹴るなよ」
 「いいだろ、別に。だいたいな、そんな鳥のクソがついた服になんて触りたくないし」
 「え!?」
 「うっそー」
 「てめ …… っ」
 ケラケラと笑って彼女は日陰に腰を下ろす。
 彼女はクラスメイトで、彼に声をかけてくる数少ない連れのひとり。正直なところ、彼は声をかけてくれてもくれなくてもどっちでもいい、と思っていて、クラスからは若干浮いている。それが不良たる要因のひとつなのでは、とも彼は考えたことがある。
 そして、そんな彼に干渉する彼女、彼女はクラス内で『ネコ』と呼ばれている。放っておけばどこかに行くし、放っておいても寄って来る。懐いているのか、いないのか。性格的に奔放なところがあるから、だそうだ。ちなみに彼とネコはサボりの常習犯として知られている。
 手にはいつ買ってきたのか、コンビニの袋を持っていた。不思議そうに眺めていると、彼女が怪訝そうにこちらを向いて、太陽を指さした。
 「今何時だと思ってんの? とっくにガッコー終わってるし」
 指でさされた太陽は西の空に傾いて、下の運動場からは体育の声ではなく、聞くに堪えない運動部のお互いに励まし合うような声援が聞こえてきている。
 「昼食ってない」
 「かっは、馬鹿じゃん」
 「うっせー、寄こせ!」
 「嫌だよ。なんでアンタに恵まなきゃならないのさ」そう言って袋をぎゅっと胸の辺りに抱いて、じとっと睨みつけてきた。
 と、ふと思い出したように彼女はニヤっと表情を変える。
 「いいよ、一本くらい」
 彼はその言葉と彼女の真意が分からず、顔を顰めた。
 「なんだ、スナックなんかじゃ腹は膨れないぞ」と、一応出される前に突っ込んでおく。「それに一本てな、もうちょっと勉強しろ」
 「かっははは! ちがうちがーう」
 カサカサっと袋を鳴らして取り出したのは、全体的に白い、藍色のアクセントが入った手の平サイズの箱だった。
 「た・ば・こ」
 「なっ! お前吸ってんのかよ!?」
 「あれぇ、言ってなかったっけ? 結構ここでも吸ってんよ、アタシ。あぁ、ちゃんと吸殻は始末してるから、アンタに疑いがかかることないよ」
 「いや、そうじゃなくてさ」
 「うん? なによ。今さらびびった?」
 相変わらずへらへらした顔で、飄々と彼女は歌うように言う。
 そのなんでもないようでからかわれているような顔に、彼は腹が立った。無言で彼女の手から煙草を奪い、ナイロンのラッピングを不器用にむしって、箱を開けて、一本取り出し、口元まで運んで止まった。
 「ふふん?」
 それからどうするの~、と言いたそうな顔をしながらライターを指でつまんでプラプラさせている。
 彼はその表情に腹を立てながらも指でつまんでいる煙草をじっと見つめる。
 「ら、ライター貸せよ!」
 「いいじゃん、点けてあげる」
 かちっと鳴って、小さな火がチロチロと揺れる。少しの間、その火を見て喉を鳴らす。
 格好悪いくらいに、ごくんと鳴って、彼女はきょとんとしてから馬鹿みたいに笑いだす。彼はそれが堪らなく恥ずかしく思えて、ライターも彼女の手から奪うようにして引き寄せる。
 「ん」
 意を決した彼は煙草を咥え込み、ライターの火で火を点ける。
 途端。
 「ごほっ! げぇっ、がっは!?」軽い吐き気と、目眩と頭痛が襲ってきた。「うへぇ。げほ」
 「かっはははは! 無理するから。あんたにゃ強いっしょ?」
 と、彼女はそう言うが彼はそもそも煙草のどこに強い弱いがあるのかなんて知っている筈もなく、こくこくと知ったかぶって頷くことしかできなかった。それを見た彼女はもう一度きょとんとして笑う。今度は先程までの大笑いなどではなく、優しく微笑むだけだった。
 「かっわいいなぁ、あんたってば」
 「げほ、か、かわいいとか言うなっつの」
 「そういう強がりがかわいいってんだよ、ばーか」
 ケラケラといつものように笑い直し、彼の手にまだ持っていた火が点きたての煙草をひょいと取り上げ、自分の口に運んで咥えた。
 「あ」
 「んー?」
 彼女からすれば、ただもったいないという理由だったが、あくまで相手は思春期真っ只中の男子。意識するなと言う方が無理がある。
 夕焼けになりかけている空に顔をそむけ、彼は自分の顔の赤さを誤魔化そうとする。
 その仕草が面白かったのか、彼女は声なく苦笑して、コンビニの袋を漁る。
 「ほら、これ。昼食ってないんでしょ?」
 「ん。なんだよ、コンビニおにぎりかよ。しかも …… なんだこれ」
 「新商品のスイーツおにぎりだってさ。ちょっと前にスナックおにぎりってあったけど、あれ成功してたみたい。じゃないとこんなの出さないでしょ?」
 彼女はまたケラケラ笑いながら言う。
 どうやらこのおにぎりの具は『プリン』らしい。値段は125円。原材料にもプリンとしっかり記載されている。
 「どうなんだ、これ。ていうかプリン好きなのか?」
 「女の子だからね、これでも。ていうかプリンて万人の好物じゃなくない?」
 ふぅ、と肺に溜まった紫煙を吐き出して、いつになく真剣に訊いてくる。
 珍しいとは思いつつ、彼は会話を続ける。
 「いや、万人ではないだろ。ましてやこれは …… どうなんよ?」
 「おいしいんじゃない? プリンだし」
 「じゃ、お前食えよ」
 「いやよ。怖い」
 「やっぱそうなんじゃねぇか! 俺に毒見させようとしてたろ!?」
 つーん、と彼女はそっぽを向き、ぷは、とまた煙を吐く。
 彼の話を気にする素振りなど全くなく、それだけでこれ以上の問答が意味のないものだと彼に自認させている。つまり、彼が食わねば私も食わぬ、といったところか。
 「ちぇ」
 ぴりぴりとラッピングを順序どおりに剥いていき、中央付近の海苔がしっとりと湿っているおにぎりを前に、一度生唾を飲み込む。
 これは果たして美味いのか、不味いのか。
 大きく三角形の頂点からかぶりつく。
 下に乗った瞬間、まずはよくあるコンビニの味が広がり、次に甘いミルクセーキのような味がきて、最後にカラメルの味が残る。
 咀嚼を続けること数秒。なんとも言い難い甘く、ねっとりとした感覚が口内を支配する。
 「これ、ダメ」
 「あ、やっぱり」
 「お前なぁ!!」
 彼女はケラケラ笑い、馬鹿にするような目でこちらを見てくる。
 さて、次の問題はこの手に残ったおにぎりだが、はっきり言って食べようという気概が起こらない。
 食べられないことはない。のだが、お世辞にも美味いとは言えない。
 「はぁああ …… 。いる?」
 「いらないわよ。そんなの」
 「そんなのって」食べかけのおにぎりに目を向け、その米と米の間に強烈な自己主張を続ける黄色いプリンが目にとまる「お前プリン好きなんだろ」
 「おにぎりプリンは遠慮しとく」
 抗議も意味をなさないらしい。
 もう一度、プリンがふるえる米粒に目をやり、息を飲む。
 次に彼女に目をやると、すっと視線から逃げるように顔をそらすが、彼は見逃さなかった。彼女の今にも爆笑しそうな顔を。
 だが、今さらそれを言っても無駄だということは先ほど確認済み。覚悟を決め、残っていたおにぎりの半分を口に含み、味が広まらないうちに3回ほど噛むだけで飲み込んだ。
 それでも大きすぎる米粒は口内に残って、じわりと染みわたるように味を主張し始めた。ここにお茶でも何でも流しこめるようなものがあれば迷うことなく手を伸ばしている。
 「……ん、ぐ。はぁ」
 まだ手に残る残り半分のおにぎりを見て、思わずため息を漏らす。
 彼女の方は抑えきれなくなったのか、一度「ぶ」と噴き出す。それでも我慢してるあたり、良心がまだ残っているということなのだろう。なら助けろ、と叫びたい気分でおにぎりに視線を戻す。
 「く、か……っ。もういい、私が悪かった。ほら」
 「あ」
 彼女はそう言うと突然彼の手からおにぎりを奪い、口に放り込んだ。
 もぐもぐと咀嚼すること数秒、うえ、と舌を出した。
 「よく食えたね、あんた」
 「あ、あぁ……まぁ、な。えっと」
 「ん? なによ、飲み物はやんないよ」
 また関節キスだ、とは言えない。キスというよりも、唾液を食べられた、に近いので先ほどの煙草より刺激が強い気がして、彼はどうにもいたたまれなくなった。
 「俺帰る」
 「えー、もうちょっといてもいいんじゃん? あんたん家どっちも働いてんでしょ?」
 「そうだけど、まぁ、夕飯の準備とかだな。いろいろあるんだよ」そう言って彼は立ち上がり、屋上の出入り口に歩いていく。扉を開けると振り向いて挨拶をした「じゃあな」
 彼は体を揺らしながらとぼとぼと歩き、自分のクラスの教室へ歩を進める。到着して、扉を開けるとさすがに誰もいない。
 彼は別段、期待していたわけではないが、ため息をついた。せっかくの高校生活。夕方まで教室でストロベリートークでもしてる奴はいないものか、と。そう言う自分は今の今まで屋上でいったい何をしていたか考えて、彼はもう一度ため息をついた。
 「ため息一回で幸せが一つ逃げるらしいぞ、少年」
 「うっせーよ、馬鹿」
 「馬鹿とは何よ、馬鹿」
 「うっせー馬鹿、馬鹿って言った奴が馬鹿だ」
 「お前じゃん」
 ケラケラと笑う。屋上にいたネコが彼の後を追って教室まで来ていた。
 彼女は彼のことは気にせず教室から自分のカバンを持ち出して一足先に玄関へ足を向けていった。
 「 …… なんだよ、ばーか」
 本当にガキみたいだ。でもガキじゃない高校生なんてむしろ気持ち悪い、と彼は常々思っている。というか、高校生までがガキでいられる境界なんじゃないのか、とさえ思っていたりする。ちょっとした意地だ。
 彼は自分の机に引っ掛けていたカバンを持ち上げ、教室を後にする。部活してる奴のものだろうカバンがまだちらほら見えるので鍵は閉めないでおくとする。
 欠伸をひとつ、玄関先で靴を履き換え、運動場の隅を横切って正門から出ていく。
 「テストいつからだっけ …… 」
 ふと漏らした言葉は、今日の屋上での出来事を忘れさせるには十分な威力を持っていた。


 彼はとぼとぼとやはり体を揺らして歩き、自宅のマンションまで帰ってきた。
 只今の時刻、6時10分前。今から夕飯を作って、準備が出来たあたりで両親が帰ってくるだろうと目算して、鍵を取り出す。
 かちゃん、と解錠される音が鳴って、開け、中に入る。
 「おかえりーお兄ちゃーんっ!」どっかーん。なんて愛くるしい妹か、「あら、今帰ったの。おかえりなさい」ふわり。なんてクールな姉をいくら欲したところで手に入らないのを彼は重々承知している。時々、妹なら両親に頼めば作るかもしれない、なんて思ったことが幾度かあるが、その度に両親の多忙さを思い出して彼は頭を振る。
 これで不良かよ、と思うのも「不良だよな?」と疑問に思う要因のひとつだったりする。
 「あ、今頼んでも出来た妹ってほとんど親と娘くらいじゃん」
 頭の中とは見当違いな言葉を吐いて玄関に上がる。スニーカーを脱いで真っ先に向かうのは台所の冷蔵庫。明日の朝飯にと買ってきた材料を手際よく詰め込んでいく。
 卵が今日は安かった。キャベツがそこそこ高かった。魚が良くて、肉はアウト。
 ぶつぶつと呟きながら詰め込んでいく。
 「さってと」
 腰をとんとんと叩いて、我ながらジジ臭い。と彼は漏らす。
 彼は夕食に取り掛かかった。
 
 
 「ただいま」
 彼女は誰もいない借家に挨拶して、靴を脱ぐ。
 適当に買ってきたコンビニ弁当をちゃぶ台の上に放り投げて、強すぎたのか、跳ねてそのまま逆さまに床に落ちた。
 「あ …… くっそ」
 コンビニ弁当だからそこまで崩れないとはいえ、テンションが少し下がる。
 彼女は弁当をそのままにステンレスの備え付けの台所に立って、ヤカンに水を入れる。そのままコンロにおいて着火。その動作を終えてから弁当をちゃぶ台の上に置き直す。
そのまま座り込んで、ポケットから煙草のケースを取り出し、咥えて火を点ける。
 すぅ、と煙を肺に送り込んで、吐き出す。
 テンションをそれで保って、テレビをつける。流れているのは明日の天気予報。どうやら相変わらず晴れらしい。気温も30度を越え、湿度も高い。タオルが手放せないでしょう、とのこと。
 「かは。あいつよく屋上なんかで寝れたな」
 笑って思い出す。
 今日は二回。正確にいえば三回。最初のはあいつが無防備すぎたのがいけない。と言い訳を自己本位に解釈する。
 彼女は唇に指を当て、口紅を塗るかのように軽く這わせる。二ヤリ、と意地の悪い笑いを浮かべた。
 「さてと、着替えよ」
 灰皿に煙草の吸いさしを置いて、立ち上がる。
 べたりとする汗を吸った制服は気持ち悪い。まずシャワーを浴びよう、そこまで考えて服を脱ぐ。
 洗濯機には朝のうちに入れておいた風呂の残り湯があり、そこに制服もろもろを放り込む。携帯は出したし、財布も出してる。時間は今6時30分頃。シャワーを浴びて、弁当をつまめばちょうど7時。そこから着替えてバイト先のコンビニにまで歩いていって、ちょうどいいだろう。
 シャワーはまず、冷水から始まって、軽くお湯に、そこからまた冷水、の繰り返し。彼女が満足するまで浴びに浴びて、出る。
 洗濯機を回して、着替えを取って頭からかぶるように着る。煩わしいのでブラはつけない。ショーツはさすがに穿いて、その上にジーンズを穿く。
 ちょうどお湯が沸いて、急須に注ぐ。湯呑とそれを持ってちゃぶ台まで持っていき、座りこんでテレビを見る。コンビニ弁当の包装ビニールを剥がして、食事の準備は整う。
 「いただきます」
 それが、ネコという少女の一日の終わりの手前。
 
 
 翌日。
 彼は朝も早く学校に来ていた。これもまた「不良なのかなぁ?」と疑問に思うところである。
 彼の両親は共働きで、息子である彼は「出来るだけギリギリまで寝ていてほしい」などと考えるところもあり、朝食や弁当は彼が作っている。
 家事一般と言うわけではないが、それなりに主夫なのだ。
 「眠 …… 」
 欠伸を一発。首の骨をグキリと鳴らし、机に突っ伏する。
 「あー。あっちぃー」
 冷房など都合のいいものは設置されていない。夏は暑く、冬は寒い。自然と一体になれるのがこの学校のいいところのひとつ、だそうだ。
 ふざけるな、なにを正当化してんだちくしょうめ。と彼が言ったのは言うまでもない。
 寝るにしても暑苦しくて、汗がじっとりとして気持ち悪くて寝るに寝れない。
 身を起こし、窓の下を覗けば運動部がせっせとグランドを走ったり跳ねたりしている。その誰もが汗を滝のように流し、それでもなお清々しく笑顔でいる。
 「このクソ暑いのによくやるわ。あの笑顔が諦めの極致でないことを祈る」
 ごつん、と音をたててまた机に突っ伏し直す。
 さっきまで若干冷たかった机もくっつく気にもなれないくらい生暖かい。それも汗つき。
 めんどくさそうに立ち上がって、廊下に出る。トイレに入って、洗面台で顔を洗う。水道から流れてくる水も若干温い。が、洗い終わって空気に顔をさらすと気持ちひんやりとしていて悪い気はしない。適当に拭って教室に戻る。
 と、数人の女子が教室にいた。日直でもないのにご苦労なことだ、とある程度無視して彼は自席に腰を下ろす。
 「あ、お、おはよう」
 その中の気の弱そうなひとりが声をかけてきた。
 「あ? あん、そうね、おはよう」
 挨拶も適当に流す。しゃべるだけ暑くなる。話したくもないし、動きたくもない。
 彼女はそのままそそくさと女子の輪に戻っていく。ひそひそなにやら話す声が聞こえ、一瞬わっと盛りあがって、次は別の女子が近づいてくる。
 「おはよう!」
 「 …… なんだってんだ、はいはい、おはよう」
 そうは思っても律儀に挨拶を返すところは彼らしい。女子はまたとたとたと輪に戻っていく。
 どうせただからかいたいだけなのだろう、と割り切って生暖かい机に再三突っ伏する。
 その考えは当たったのか、女子は彼が突っ伏した時点でやる気がなくなったのか、暑い中姦しくおしゃべりを始めた。
 8時を過ぎたあたりから続々と生徒が登校し始め、教室も埋まっていく。
 HRが始まる直前になって、ネコが教室に入ってきた。彼はまだ机に突っ伏したままで、ネコが入ってきたことに気がつかない。
 「うーっす。死んでるな、アンタ」
 「 …… 寄るな、暑い」
 「あっそ。んじゃねー」
 別段傷ついたわけでもなく、慣れたように彼の席から離れた自席に彼女も腰を下ろす。
 間もなく担任が教室に来てHRを済ませ、出ていく頃に彼は顔を上げた。1時限目は移動教室だ。
 
 放課後、彼は学校から出て自分の家ではなく、逆の方向を目指して歩き始めた。
 こんも学校は小さな山の中腹あたりの住宅街の一角に造られている。彼の家は麓のマンションの4階。しかし今彼が向かっているのは山の上。
 10分近く歩いただろうか、喫茶店についた。今どきのちょっと小洒落た、なんてのではなく、昔からそこにあったというような風貌である。一目見ただけではそこが喫茶店だとはだれも思わないだろう。看板が出ているのが救いか。
 彼はためらいもなく扉を開ける。チリリン、と涼しげな鈴の音が響いて、ぶあっと冷房の利いた空気が漏れてくる。
 「涼しいぃー」
 「早ぅ閉めんか、アホ。空気逃げるやろが」
 「うぃっす」
 明らかに客に対する態度ではない態度で迎え入れたのはこの喫茶店の主人である女性。関西圏出身らしい。
 ショートカットの黒髪と、整ったボディライン。グラマーと言うよりはスレンダーである。ここまで聞けば美人とも取れるだろうが、眠たそうな瞼に、三白眼。いつ見てもイラついているようにしか見えない眉間。口には愛用のパイポが咥えられている。当然店内終日禁煙である。
 「で、今日はなんなん?」
 「アイスコーヒーで」
 「何時間?」
 「1時間もいないですよ。家の用事もあるし」
 「んなら許す。いらっしゃいませ~」
 人を変えたように声色が高くなる。イラついた眉間も今はなくなり、にっこりと弧を描いている。
 こんな人でも店ひとつを切り盛りできるんだから、世の中よく出来てる、とは彼の言。
 それもこの顔が関係してるだろう。まるで今にも人を恨みを込めて殴りそうな普段の顔とは違って、営業スマイルは間違いなく美人なのだから。
 「はい、お待たせしました。アイスコーヒーです。ミルク、入れましょうか? ガムシロップは? あ、混ぜますか?」
 「いや、そこまでしなくていいですから」
 「 …… なんや、人が気ぃよくしたってんのに。ホンマかわいないガッキゃな」
 「おかしくないっすか、いろいろ」
 「あんたらだけやし。他んお客様にゃちゃ~んとやってるよ」
 横暴だ、とは言わない。言ったらそれこそ拳が飛んできそうだからだ。
 彼は適当にノートを開く。板書を写したノートである。せめて何か覚えようという、必死の抵抗。
 テストはもうすぐそこまで迫っていた。
 彼がカリカリと頭を掻きながらノートと睨めっこすること数十分。店の扉を開ける音がした。元から他人には興味がない彼はそちらを向くことなくじっとノートを眺め続けている。時々ペラペラとページをめくっては頭を抱える。別に彼は分からなくて頭を抱えているのではない。これが彼の癖なのだ。
 「あー、すんませーん。アイスコーヒーおかわり貰えますか?」
 「あ、じゃあアタシもアイスコーヒーでいいや」
 「 ………… はぁ」
 「なによ、あからさまに嫌そうな顔すんなよ」
 「別に。邪魔すんなよ」
 ちょっと離れた席についていたのはネコだった。「邪魔なんてしないよ」と嫌味っぽく言ってから彼女は携帯を開いてそれなりのスピードでなにやら打ち始めた。
 邪魔しないなら、と彼はノートに書かれた板書の覚え込みと理解に没頭する。それからまた数十分経って、彼はノートを片付け、席を立った。
 「会計お願いします」
 「はいはい、アイスコーヒー二杯で400円やね、まいど」
 500円玉を財布から取り出して、渡す。
 「 …… あと100円」
 「は? いやそれで100円返ってくるでしょ?」
 おもむろに彼の背後を指さして笑う。彼は諦め顔で振り向くと、案の定ネコだった。
 「奢ってほしいな?」
 「な? じゃねぇよ。うっせぇよばーか」
 そう言いながらも彼は小銭を取り出し、カウンターの上に叩きつけるように置いた。
 そのまま扉を開けて外に出る。ちりん、と涼しい音とは裏腹にむわっ、と凄まじい湿気が体を襲う。一瞬でじっとりとした汗が滲んできた。
 日が傾いて若干温度が下がった気はしないでもない。たぶん27、8度あたりだろう。でも暑い。
 「かっはー。あっついわ、こりゃ参るねー」
 ネコが後ろから歩いてきて並ぶように立つ。懐から煙草を取り出し、一本を咥えてライターで火を点けた。そんなことをわざわざしなくても気温だけで火が点いてしまいそうである。
 ふぅ、と紫煙を吐き出すと彼の方に向かって煙が流れた。うざったそうにそれを払って、うざったそうにネコに視線を移す。
 「 …… 吸う?」
 「おちょくってんのか」
 「かっははは。冗談よ、本気にしなーい」
 トコトコと坂を降りはじめる。彼は嫌々とそのあとを追うように坂を下っていく。
 このあたりならどうにしろ行く方向は同じである。早足になってネコを追い越し、煙が届かないようにする。
 と、後ろから気だるそうに声をかけられる。
 「あんさー、お前さー、もちっと愛想よく出来ないわけ?」
 「お前に言われたかねぇよ。タバコ吸ってんだろが」
 「君、たばこはカンケーないよ。んー、んじゃあそこまで言うなら見せてあげようじゃない」
 「何を?」彼が言うが早いか、彼女は辺りを見回し、煙草を捨て、革靴の踵でグリグリとすり消し、軽く走って彼の前に出た。「な、なんだよ」
 彼女はケラケラと笑って、咳ばらいをひとつ。
 後ろ髪を纏めたゴムを外し、ポニーテールだった髪が降りる。と言っても、ネコの髪は元々ボリュームがあってくしゃくしゃとした癖っ毛だったのであまり変わり映えして見えない。ただ違って見えるとしたらその表情か。
 いつものすかした眼ではなく、どこかやさしいと思うほどのやわらかい目元。口元はいつものへの字口から下に弧を描いたような唇。
 美人だった。
 「っ …… 」
 「ふふ、赤くなってら」
 「うっせ、ば、ばーか!」
 「あー、馬鹿って言いやがった、このトーヘンボク」
 彼は結局そのままからかわれ、帰り道が別れるまで心休まる時がなかったという。
 
 
 数日が経ち、定期試験である学期末試験が行われた。
 5日に及ぶ強行軍で教室は静まり返り、ただでさえ暑い上にさらに空気まで重く張りつめていた。
 教室の一角から小さないびきが聞こえる。ネコだった。すぅ、すぅ、と張りつめて静かな空間に彼女の寝息が響く。
 座席自体は離れているが、彼にもよく聞こえるほどの“静かな”寝息だった。
 その他ではシャーペンの紙の上を走る音と、芯を出す時のカチカチという音だけ。ときたま消しゴムの紙を挟んで机を叩くような音が聞こえたりもする。
 残った時間はあと数分。彼の答案用紙にはびっしりと答えが書き込まれていた。
 (でも全然自信ねぇ …… ) 
 だましだまし書いていったようなものだ。
 そして、数分の後、終了を告げるチャイムが鳴った。
 教室がわっ、と盛り上がる。口々に喜び、叫び、悲しんでいる。そんな中、ネコがばっと起き上る。手の甲で目元をこすり、その姿がまるで毛繕いをしている猫のように思い、彼は苦笑した。
 答案は後ろから順に回収され、しばらくして解散の声がかけられた。これでもう、後は夏休みを待つのみである。
 気が早い者は友人らと輪を作り予定を組み始めている。中には、もっと前から予定を組んだいたのか、その予定を確認し合う者もいる。
 そんな中、浮いた人物がふたり。彼とネコである。特に友達と言える関係を持たず、自分から誘うような真似もしない。声をかけられたらかけられた時、臨機応変に対応する心構えでいる。それは周りも同じなのだろう。関係を持たないふたりに声をかけるものは誰ひとりいない。
 だからと言って、このふたりが仲良く、「なぁなぁ、夏休みなにか予定ある?」「ないなー、じゃあふたりでどっか行く?」などと話すこともない。
 似た者同士くっつきあう、などと見られたくないのだ。似た者同士だということについては、彼らは否定しないようだが。
 「はぁ……」
 彼はガタリと椅子を引いて席を立つ。解散と言われたし、特に用事もないのに学校にいることもない。
 喫茶店に行こう、そう考えて席を立った。最後に出ていく前、教室を見渡すと、ネコはいつの間にかいなくなっていた。
 
 彼は喫茶店前に立って、その扉に張り紙があることに気がついて立ち止まった。
 
 
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        バイト募集!
 うら若き少年少女よ、この夏大儲けしないか?
 
   定員は2名まで!急いで応募しよう!
 

     連絡先:ここ。
      時給:時価。
   応募資格:期末終了直後の高校2年生。
 
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 「…………」
 言葉がなかった。一瞬、彼は馬鹿馬鹿しくなって帰ろうかとも思った。
 踏み止まれたのは僥倖と言うべきだろう。
 「ぶ」
 後ろで思いっきり噴き出す音が聞こえた。考えなくても彼にはそれが誰かなんて分かり切っていたが。
 「きゃはははははは!! 何これ、ありえねー! 時給時価ってなんじゃそりゃー!!」
 いつものケラケラとはわけが違った。もうこれはゲラゲラだ。
 腹を抱え、路上にふさぎ込んで笑い転げている。ふひふひ、とわけのわからない息をもらし、呼吸困難にならないのが不思議なくらい笑っている。
 幸せ者め。彼は呆れた。
 「……」
 見返してみても、このバイト募集の張り紙は不特定多数を指しているのではなく、特定の限定された人物を指しているとしか見て取れない。
 そう、彼とネコのことだ。そんな彼の第一声はこうだ。
 「バイト雇うだけの儲けがあんのかよ、ここに」
 「やかましゃーっ!! 余計なお世話やっちゅうねん、これでもざっくり儲けとるわ、ボケーッ!!」
 店の扉をぶち壊さん限りの勢いで飛び出してきたのは、この喫茶店の店長である女性。
 目の前には今にも殴りかかってきそうな女性。うしろにはヒーヒー喘いでいる爆笑馬鹿。
 
 夏休みが始まろうとしていた。
 
 
 
 
 
 夏休み初日。
 朝も早く、現在7時50分。
 少しばかり時代が遅れている感じの店内には、うら若き期末終了直後の高校2年生の少年少女が制服代わりの黒一色のエプロンを着けて並んで立っていた。
 少年の方は背が高く、170後半はあろうか。黒い髪は短く、そして硬そうだった。触れば刺さってしまいそうな印象がある。
 少女の方は寝癖でもそこまではならないようなくしゃくしゃの黒っぽい茶髪を後ろでまとめ、ポニーテールにしている。
 「おーし、時間通りやな。時間厳守は社会の鉄則やで」
 そのふたりの前に仁王立る女性。ショートカットの黒髪を冷房の風に揺らし、声の透き通った印象とは違い、眠そうな瞼に三白眼。眉間に皺と機嫌の悪そうな顔をしている。しかし、その心は晴れ渡るように機嫌がよかった。
 「まず、ウチんことは店長、呼ぶように。あ、別に名前で呼んでもろても構わんよ?」
 「名前知んねぇし」
 ぼそ、とつぶやいたのは少年の方だった。
 「おっと、いかんな。耳かっぽじってよォ聞きえ? ウチん名前は佐倉光緒[さくら・みつお]。間違っても下の名前では呼ばんようにな」
 「どっちなのよ」
 今度は少女の方だった。確かに、名前で呼んでも構わないと言った傍から、下の名前では呼ぶな、である。
 こうつぶやくのも無理はないだろう。
 「えぇい、エエから『店長』か『佐倉さん』て呼んだらええんの。ホラ、次自分ら、名前名前」
 催促されて、先に口を開いたのは少女の方だった。
 「篠原美鈴[しのはら・みりん] ですー、よろしくおねがいすますー」
 「やる気ないなぁ、おい。まぁ、ええわ。ほな次。どんどんやってくれたまへ」
 少年はそう促してくる店長から視線をそらし、ふぅ、とため息。
 次いで、自分の名前を口にした。
 「藤原千尋[ふじわら・ちひろ]」
 淡々とした口調の中に、コンプレックスが混じっているのを店長は聞き逃さなかった。何と言っても同じ悩みを持っているのだから。
 「なんや女の子みたいな名前やねぇ、人のこと言われへんけど」
 店長がパン、と手を打つ。
 にーっ、と笑って声を張る。
 「さぁ、開店時間まであと1時間ないでー! さっそくこき使わしてもらうけど、掃除や掃除! 表と中と、分担して行こかい! あ。もちウチは中な」
 少年、千尋と少女、美鈴ことネコは顔を見合わせた。
 季節は夏。朝といえども太陽は容赦なく紫外線諸々を地上に降り注がせ、アスファルトは鉄板状態。
 上と下からとの熱の板挟み。朝っぱらからそんなことしたくない。しかも時給は時価ときている。
 「じゃんけん……!」
 「ぽいぃっ!!」
 
 夏休みが、始まった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学

ちょっと外れた俺とネコ  『二章』

 
 とにかく、暑かい。
 夏休みに入ってから千尋はほぼ毎日のように、学校でもこんなに早くは起きないという時間に起床し、学校でもこんなに早くは家を出ないと言う時間に家を出ていた。そのことについて、彼は面倒だとは考えないようにしている。考えてしまえば最後、すぐにでもバイトの辞表を提出してしまうだろう。
「帰りは楽だけど……行きがキツイんだよなぁ」
 傍らを進む自転車には乗らず、千尋はそう呟く。なぜ自転車を持ち出しておいて乗ろうとはしないのか。それは、行き先が山の中腹近くの喫茶店だからである。彼の学校よりもまだ高い位置に、看板がなければ分からないほどの、大きさはそれなりなのに廃れた感じの喫茶店があるのだ。
 喫茶店の名前は『喫茶ひかり』。店長である女性、佐倉光緒の名前の一文字目をとっての命名だそうだ。
「……ふぁあ……ああく」
 大きな欠伸をひとつ。まだ重い瞼を擦りながら、千尋はその喫茶ひかりに向かう。今日はそこでバイトを始めて、4日目の朝だ。特に夏休みの予定がなかったからと言って、時給が時価のバイトなど受けなければよかったと、彼はこの4日で痛感していた。それでも受けてしまったものは仕方がなく、続けなければなるまい。彼はこれも社会勉強だ、と割り切ることにしている。
「……しっかし、あそこで社会勉強とか出来てんのか、俺」
 バイトを始めて4日。まったくと言ってイイほど、店には客が来ていない。一日で20人も来ればいいところだ。それでよくバイトを雇おうなどと思ったもんだ、とバイトの相方ネコと千尋はいつも店内で堂々と話している。その度に光緒に睨まれているものの、光緒自身、それを怒ろうとはしない。図星だからだ。
「でもま、なんか今日は違うとか言ってたし……。なにが違うかは知らんけどさ」
 自転車のチェーンがカチカチ鳴りながら回転している。それとは違うリズムで、後ろから靴底をずって進む音が聞こえ始めた。振り向くまでもなく、隣に一人の少女が並んだ。篠原美鈴だ。千尋からだけ、「ネコ」というあだ名で呼ばれ、彼女もそれを嫌がるそぶりを見せない。気に入っているわけでもなく、ただそう呼びたいなら呼べばいい、というだけの理由である。
 どちらとも、何か話すわけでもなく、朝の挨拶などもしない。傍から見れば、友人同士の朝の散歩に見えないでもないだろうが、挨拶も会話もない友人の散歩など、聞いたことがない。喫茶ひかりに着くまで、ふたりの間に会話はなかった。
「おはーす」
「はーす」
「おう、おはようさん。そんならどっちか表の掃除よろしくなぁ」
 あまりに理不尽だ。千尋は顔をしかめた。上り坂じゃ使えない自転車をえっちらおっちら押し上がってきて、多少疲れているところにさらに追い打ちをかけるように「掃除しろ」だ。彼は隣にいる美鈴に視線を向ける。彼女の方もしかめっ面で千尋をじとりと見た。
「……お前やれよ」
「あんた頭湧いてんじゃないの?」
「てめ……」
「だって、私昨日やったじゃん」
 美鈴はしれっと言い放つ。だからあんたがやればいい、と暗に言っている。だが、と千尋は思い出す。初日と二日目は確か俺が掃除をしたのではなかったか、と。回数的に考えれば、美鈴が掃除をするのが妥当である。そう言いたいのだ。しかも、手ぶらの美鈴と違って、千尋は自転車という全く役に立っていない文明の利器を押してこの山の中腹まで来ているのである。
 とにかく、どういうことがあろうとも彼は美鈴に掃除をさせたかった。
「ネコ、お前やれって」
「はぁ? ちょっと店長、こいつ頭おかしいんですけどー」
「ウチに振んなや。ええから、さっさと掃除してこんかアホ。給料引くぞ」
 給料と聞いてふたりは反応した。時価とかいう条件を出しておいてさらに引くつもりなのか。もう一度視線を合わせ、ふたりして頷き合う。
「お前がやれ」
「あんたがやれ」
 堂々巡りだった。これにはいよいよ光緒も怒りだす。読んでいた新聞をカウンターに叩きつけ、大股で歩いてふたりに迫る。その表情は元からの顔つきの悪さも相俟って、まさしく鬼の形相だった。一言も声を出せずうろたえるふたりを余所に、光緒はふたりを前に仁王立つ。
「ふたりで仲良ぅ行ってこいや、ボケェッ!」
 つーん、と耳に響く大音声。ざわざわと鳥肌が立つほどの声と迫力だった。
 千尋と美鈴は逃げるように店の外へ飛び出し、そそくさと掃除を始める。幸い、まだ日が昇り切っていない太陽は気にするほどのものではなかった。だが、暑い事には変わりない。ただ日光が少なくてある程度過ごし易いというくらいだった。千尋は掃除用具箱から箒を一本取り出し、適当に掃き始める。美鈴も遅れず適当に掃き始めた。
「なぁ、お前さぁ」美鈴が急に口を開いた。「レディファーストじゃないけど、女の子にやらせようとすっかよ」
「はぁ? つってもお前まだ1回しか掃除やってなかったじゃん。俺、2回してたからね?」
「かっは。なにそれ。わざわざ言うことかよ、ガキじゃん」
「うっせー馬鹿」
「馬鹿っつった方が馬鹿なんだよ」
「なら今からお前も馬鹿だ、馬鹿」
 お互いに舌打ちを終了の合図にして掃除に戻る。アスファルトを削るようにガシガシと箒の先を擦りつける千尋と、慣れた手つきでさっさと掃いていく美鈴。違いはあるものの、どちらともしっかりと掃除はしている。
「……水、汲んで来てよ」
「お前行けばいいだろ」
 すると、今までの言い合いが嘘のように美鈴は素直に自分で水を汲みに行った。少なからず肩透かしを食らった千尋は木陰に潜り、直射日光を避けて彼女を待っていた。気にしてもしょうがない、と言わんばかりに涼んでいる。
 1分もしないうちに、美鈴は水が一杯一杯入ったジョウロを持って帰ってきた。木陰にうずくまっている千尋を一瞥した後、ジョウロを傾けて、店の前に打ち水を撒いていく。今日も天気はよさそうなところを見ると、きっと1時間もしないうちに乾き切ってしまうだろう。そう考えると、今していることがどうにも無駄なことのように思えて、千尋は店内に戻った。
 冷房が効いた店内は、外と比べると天国だった。間を置かず美鈴も店内へ戻って来る。ふたりが揃ったところで、光緒は次の指示を出す。
「ほんなら、次、アレな。買出し」
 ほれ、とメモを差し出され、ふたりはそれを受け取る。書いてあるものは大体が業務用の調味料や、もしくは食材配達の依頼などが主だった。配達依頼などは電話で済みそうなものだが、どうやらそれは違うらしい。
「そこなぁ、ウチの知り合いがやってるとこでな。電話で頼んだら一般とおんなじ値段で売られるんやけど、直接行ったら格安で売ってくれんのんよ。やから、電話では済まされへんのやな~、これが」
 なるほど、とふたりは納得する。配達の理屈にではない。今日は大変だ、という光緒が言った言葉にだ。
「……今すぐっすか?」
「見て分かるやろ~、ん~? 今から行かな、夕方までに間に合わんで、それ」
「どんだけ働かせるつもりよ。それで時給は時価って、やってらんないわ」
「文句は金貰えるくらい働いてから言え。ほらほら、これ、昼代と電車賃な。住所とかは裏に書いてるから間違えんようにな」
 いってらっしゃ~い、とひらひらと手を振られる。千尋は美鈴と何となしに顔を見合わせ、お互いに嫌そうな顔をしているのを確認してから、諦めの色のこもったため息を吐いた。それに気が付いてないのか、気が付いているのか光緒はケラケラ笑っていた。
 ふたりが店の扉をあけ外に出ると、あまりの気温の高さに、あんなに意地の悪い店主がいる店でも恋しく思ってしまうから不思議だ。
 千尋は店の前に止めていた自転車を持ち出し、またがった。少々考えて、ため息交じりに後ろを向いて美鈴を手招く。
「乗れよ」
「やらしー」
 そういいながらも、彼女は飛び乗るように荷台にまたがり、千尋の脇を小突いた。早く行け、という合図だろう。
 しぶしぶと千尋はペダルに片足をかけ、もう片方でアスファルトを蹴る。最初はよろよろとしていたものの、ある程度のスピードが出てきたところで、車輪のブレが安定してきた。それでも、荷台にいつもは乗っていない余計なものが乗っているからだろうか、千尋はどうにも違和感を感じていた。
「重い……」
「あんだって?」
「……重いって言ってんだよ」
「それさ、女の子に言う事?」
「ネコは別だろ。これが彼女とかだったらお前、俺だってその子に案外軽いんだな~程度は言ってるってーの」
 言い返してくるだろうか、と千尋は思い、続く言葉を予想しながら返答を考えているときだった。いつまで経っても返事が来ないので、不思議に思った彼は顔だけを後ろを向けた。
 美鈴は、顔を真っ赤にして涙を流していた。
 これにはさすがにぎょっとして、千尋は自転車を止めた。自転車に乗ったままで、彼は必死になにかを喋って慰めようとするものの、いい言葉が出てこない。頭をガリガリと掻いて、小さく「ごめん」とだけ謝った。
「う……っ、うぅっ」
 それくらいで泣きやむ筈もなく、さらに言うと今にも声を出して泣いてしまいそうであった。
 こうなってはどこをどう言えばいいのかも分からず、千尋は「ごめん」を連呼するだけだった。ときどき「本当に」をつけるだけだ。だから何が変わった、と言えば何も変わってはいない。
(勘弁してくれよ……)
 自分が悪かったのは認めるが、さすがに泣くのは……。というのが千尋の考えであった。
「…………あの、ねっ」
「な、なんだよ……」
 声をしゃくり上げながら、美鈴は続けた。
「アンタって、さっ。……うぐっ、ホント……っ、さいてーだよっ!!」
「だから、悪いって謝ってんじゃんかよ。しつけーっつの。どうしろってんだよ」
「…………私、じゃっ、嫌なの……っ?」
 勘弁してくれ。彼は今度こそ心から願った。
 冗談じゃない、なんてレベルじゃない。ありえない。コイツが、俺を? 自問自答が頭の中でぐるぐる廻る。
 だが、そこは自意識過剰気味な思春期の少年。ありえない、と単純に言い切るほど、色恋沙汰が愛しくないわけはなかった。美鈴はその見た目のだらしなさから、あまりいい印象を受けることがない。だが、素材はいいのは確かだ。有体にいえば美人だった。ちゃんとしてれば。
「お前……マジかよ」
「こんなのでっ、嘘、つくと……っ、思うっ?」
 いよいよ彼の心臓が暴れ始めた。絶対に騙されてる、と信じて疑いつつ「本当だったら……」という考えも頭から離れず、もうどうしていいか判らず、彼自身も泣きたい気分になってきていた。
 それでも美鈴は容赦なく「どうなのっ?」と詰め寄って来る。どうなのもこうなのも、千尋は腹を括った。
「……別に、嫌、じゃあないけど……」
「え?」
「だからっ! えっと……嫌じゃないっつってんの……」
「……ほ、ほんとに……っ!?」
 くしゃくしゃの前髪から覗く目が、涙のせいなのか千尋には輝いて見えていた。
「ふ、ふふふ」
「な、なんだよ」
「か、ふふふ……」
 嬉しいのだろうか、と千尋が思っていると――――
「かっはっはははははは!!」
「んなっ!?」
 なぜか、美鈴から出たのは爆笑だった。
 彼の背中に、嫌な汗がどっと溢れてくる。
「ひーっ、ひーっ、かっは!」
「…………」
 言葉が出ない彼を差し置いて、美鈴は笑う笑う。仕舞いには腹が痛いとまでのたまった。さすがの彼もこれには参るしかなかった。
「お前……」
「あーっはは。嘘じゃ、ないって……ぶはっ、ひーっ!!」
 当てつけのように、彼は乱暴に自転車をこぎ始めた。それでも後ろから聞こえる笑い声は、視界の横を通り過ぎて行く景色のようには後ろへ飛ばされてはいかなかった。そのうち、耐え切れなくなったのか、背中をバシバシと叩かれた。バランスを崩しそうになりつつ、なんとか持ち直す。
「ふひっ、ひひひひっ、あーおかしぃーっ、あははっ」
「ちょっとなんなんだよ、ほんとなんなんですか、ほんとなんなんだお前。こっちにも我慢の限界というヤツがだなぁ」
「万年不満ブータレが何を今さらっ、かっはははは! やだこっちむかないで……っ、まじで、腹、よじれるっ」
「よじれて死んじまえ、ちくしょうめ」
 ぎーこぎーこと自転車が唸りを上げる中、笑い声が周囲にこだましていく。
 爆笑する後部の女子に、むっつりした運転手の男子。傍から見れば、わけのわからない、シュールな光景ではある。その証拠に、追いぬく人や、向かいから歩いてくる人は何事かとこちらを見ては妙な視線だけを残して景色と同化して後ろに流れて行く。
 そんな状態を引きずったまま、ふたりは駅前まで降りてきた。千尋が駅前の自転車が無造作に置かれている溜まり場に適当に駐車して、鍵をかけた。美鈴を連れて、行き先の駅名の金額と時間とを見てみることにした。
 光緒の知り合いがやっている小売業の店は、ここから急行で乗り継いでも3時間近くかかる場所にあるようだった。ちょうど、向こうについたあたりで昼食時だ。
 なるほど、とふたりは納得した。住所だけではどれくらいかかるかが分からなかったが、こうして見てみると「夕方までかかる」の意味が十分理解できた。同時に、なんて割に合わない仕事くれやがったあのクソオーナーが、と全く同じ事を考えていたことは、このふたりがお互いに一生知ることもないことだった。
「それでこれ、片道ひとり3千円近くかかるから、6千の、1万2千? ……なんで1万3千しかないのよ、これ。ふざけんなっつーの。餓死させる気がってーの」
 美鈴が電車賃とお昼代やで~、と渡された茶封筒を覗き、ぶちぶちと文句を垂れている。
 いや、確かに。と千尋も頷いた。昼代が千、とんで3百円程度しか残らないのか。ハッキリ言って、それで食べられるものと言えばファストフード店の一番安くて量のないセットメニューか、全国チェーンの安いの旨いの早いので有名なフレーズの牛丼店の牛丼(並)プラス味噌汁のセットくらいだ。
 この面倒な仕事を受けるんなら、どうせならもっといいものが食べたい、と切に願うふたりであった。
「やってらんないわ、ほんと。帰ろっかなー、これ持ってさーバックレてさー、パーっとデートしない?」
「もうそのネタいいから。ちんたら言ってないでさっさと切符買うぞ」
「真面目だねぇ、ほんとアンタってば。じゃあ、よろ~。電車乗る前に一服しとくからさ」
 そう言って懐をまさぐって煙草のケースを取り出し、慣れた手つきでパッパと口に咥え、さっさとライターで火を点けてしまった。呆れた様子で千尋がそれを見ていると、美鈴はそれを一瞥してから咥えた煙草を手に取り、ニヤリと笑いながら言った。
「吸いたいんだ?」
「い、いらねえ!!」
「あっ、ごめぇ~ん、吸いたいんじゃなくて、舐めたいとかの人だったっけ?」
「な、なめ……!?」
「え、ちょ、やめてくんない? 半径2m以内に近づかないでもらえます? その反応マジできもい」
「お前が言い出したんだろ、変なことぉっ!!」
 千尋は正直、こんなことになるなら一人で行きたかった、と考え始めていた。
 むしろ、帰りたいなら帰って下さい、と、丁重にお断りを入れて帰ってもらいたくもあった。それを光緒に連絡して、バイト代を独り占めするのが一番いい、とも。
 泣く泣く切符を買い、美鈴が煙草を吸いながら待っているだろうところまで戻ってくると、彼女は面倒くさそうな顔のまま、口に咥えた煙草を軽く揺らしながらこちらをにらんだ。
「遅い。ナンパされた」
「……ナンパされるんだ、お前」
「そりゃうら若き乙女が暇そうにしてたら声かける男くらいいるでしょうよ。面倒なことですわー」
「なんだよ、それ。バイト嫌だったらそのまま遊びに行ったらよかったのに」
 千尋としては、割と本気で口にした言葉だった。
 それを聞いて、美鈴はどこから出しているのか分からないような低音で「あー」と唸ったと思うと、地面に煙草の吸殻を捨て、踏み潰すように火を消した。その上ストンピングまでし始め、とどめとばかりに踵ですり潰していた。フィルターまでがぐしゃぐしゃになって飛び散り、今にも噛みつきそうな獰猛な視線を千尋に寄こしてきた。彼は思わず一歩後退り、息を飲んだ。
「行くんでしょ、買い物。切符寄こせよ」
「あ、ああ。これ……」
 一枚渡した切符を握りつぶさんばかりの勢いで奪い、鼻で笑ったかと思えばずかずかと改札を目指して歩いていった。
 わけのわからない行動を起こされ、半分放心状態だった彼が現実に戻ってくる。なんだあの態度、と千尋も半ばキレかけの状態で美鈴のあとを追った。無言のままプラットフォームに昇り、適当なベンチの端と端に座る。どこから取り出したのか、いつの間にか美鈴は火の点いていない煙草を咥えていた。駅構内は特定の場所を除き終日禁煙である。
 そのまま電車が来る間、一言も交わすことなく待つことになった。電車が来て乗り込んでからも美鈴は口から煙草を離すことはなく、他の乗客から妙にうざったそうな視線で見られていた。ただ平日の通勤ラッシュが終わったあたりだったので、客の数それ自体があまり多くなかったことは不幸中の幸いだと言える。
 そんな視線は全然気にしている風ではないのに、時折何かを思い出しては舌打ちをする。
 客の中にいた生真面目そうな青年も、最初は美鈴を注意しようとしていたのだろうが、彼女の態度を見ては、その身体から滲むように出る空気に気圧されて、喉まで出かかった言葉もすとんと体の中に落ちていったようだった。
「……ち」
 これで何回目なのか、まったく見当がつかないほどの回数の舌打ちがまた鳴った。
 かつ、かつ、と電車の床を叩く音まで聞こえてきている。
「なぁ、ネコ」
「ああ?」
「……なんでンなにイラついてんだよ。他の客に迷惑だろ、いい加減にしろよ……」
「はぁ? んだよ、カス」
 取りつく島もなかった。いつもの突き合うような「馬鹿」の応酬ではなく、千尋の事をカス、と切って捨てた。
 相当頭に来ていることが容易にわかった。
「あんたさぁ、私の機嫌取りとかやめなよ。なんか逆にムカつくんだけど」
「誰が誰の機嫌取りしてるって? 誰がお前に構うかってんだボケ。お前をナンパしたヤツも目ぇ腐ってたんじゃねえの?」
「そりゃあ当たり前じゃん。かっるい男がいい男なわけねーだろ」
「そのかっるい男にナンパされるお前が尻軽に見えてるってことだろ、なぁ?」
「はぁ? 論点ズレてね?」
「ズレてねーし。お前が勝手にイラついて、勝手に俺に当ててんだろハゲ」
「それのどこをどう見て私が尻軽だってんだよ、マジカスいんだけど。きもいってホント」
 電車の中で口喧嘩が過熱していく。座席の端と端で相手の顔も見ずに罵倒だけが重なっていく。
 他の客もほとんどおらず、電車の揺れる音で罵声もほとんど通っていない。
 その中で、お互いに疲れたのか、どちらともなく口をつぐんだ。
「次、降りて乗り継ぎだぞ」
「そ」
 無言は、いつ終わるともわからなかった。
 
 
「でか……」
 目的地に着いた途端の感想がこれだった。
 無駄にでかい気がしないでもない。受付らしいところで光緒さんのところの使いだと伝えると、ああー、と変な納得の仕方をされ、奥に通される。
 部屋の一つに入れられると、その部屋にひとりの男性がいた。座っているものの、それでも背が高いのがよくわかる人物だった。パソコンんのディスプレイに向かって、焦点がなくなった眼でキーボードを凄い勢いで叩いている。
 千尋と美鈴が入ってきているのに気が付いていないのか、2分ほど経って初めて口を開いた。
「二千はいりました~っと、それで、あんたらが光緒ちゃんとこのお使い?」
 なにが二千はいったのかは謎だが、ふたりが入ってきてるのには気付いていたらしい。
 年齢は光緒とそれほど変わって見えるわけではないが、「光緒ちゃん」と呼んでいたことから年上ではあるらしい、と千尋はアタリをつけた。
「そうですけど」
「お疲れさまーっと。まぁ、用事が済んだら適当に帰ってちょーだいね。一応来ただけで値引きはしてるから。なんか欲しいもんとかある? いまオレ機嫌いいから適当になんか言ってもなんでも揃うよ」
 曖昧すぎるものだったが、なぜが先の「二千」という言葉が頭から離れず、妙に本当な臭いがした。
 そこで、美鈴が口を開いた。
「じゃあさ、ライブチケットとかありなの? もう売り切れで、転売もクソ高いし」
「誰の?」
「こ、『神戸幸[こうべ・こう]』のライブチケット……」
「ふーん。君、幸のファンなんだ。いや嬉しいねー、誇らしいねー」
 そういって、男性は携帯を取り出して電話をかけ始めた。
 どうも電話の相手は親しい人らしく、かなり砕けた話し方をしていた。と、言っても千尋と美鈴と話していてもかなり砕けた話し方をしてはいるのだが。
「えー、と。君名前なんてーの?」
「は? えっと、篠原美鈴、です」
「しのはらみりんって名前だってー。そっちの君は?」
「藤原千尋、ですけど」
 ふじわらちひろだってー、いや男だよ、ほんと紛らわしい名前だわなーと、なにげなく言ったことなのだろうが、千尋の心がまたひとつ荒んでしまったのは言うまでもない。
 携帯を切り、めんどくさそうな笑顔を向けて男性はこう言った。
「チケットサイン入りで送るってさ。住所でも書いといてくれたらそこに送るよ」
「サイン?」美鈴は訝しげに聞き、「あんた誰と電話してたの?」
 別に、友達だけど、と何でもないように男性が零す。
「オレの昔からの悪友っつーかねー。それで手に入るんだよね。チケット」
「は? ちょっと、今の電話って」
「幸本人だけど」
「はああああああああああああ!?」
 美鈴が驚きつつも、興奮を隠せない様子でいる。証拠に、その顔がかなりにやけていた。
 千尋は声には出さないものの、内心とてもホッとしていた。またあのささくれた状態で帰るかと思うと。ぞっとしない話に、彼の体中から血の気が引いた。
 と。
「……ところでさ、神戸幸って、誰?」
「あんた知らないの!?」
「あ、うん。知らね」
「だからあんたはカスだって言ったのよ、なんで、あー、あんた人生の10割損してる。ていうか、あんたの人生がもうすでに損の塊みたいなもんだから来世まで損してる」
「ひでえ……」
 千尋は、芸能関係に明るくはない。というよりも、世間に疎い。ニュースは見ないし、雑誌も見ない。ならネットを徘徊するかと言えば、否。彼に世間の情報が入ってくるのは、クラス中の話からか、街中の誰とも知れない人たちの会話である。そんな彼を一瞥して、美鈴が続けた。
「大学在学中の頃からプロデビュー。カバーから、オリジナルまでそつなくこなす、若手実力派ギタリスト。主にインストを扱ってるんだけど、この頃はゲストギタリストとして有名な歌手のバンドメンバーとしても名を連ねてたりしてる。聞いた音は一回で覚えて、忘れることはないってゆー、完全聴覚記憶能力って体質らしくて、なんかすごいんだって。……まぁ、ルックスも話題ねー。あれで20代後半? ってくらいに若いのよ。もうあんたと並んでても同い年ぐらいにしか見えないくらい」
 次から次へと説明を述べて行く美鈴を横目に、千尋は完璧に引いていた。
 あの『ネコ』が、饒舌なうえに人の事を評価しているのだ。驚きを通り越して気味が悪い。
「俺さ、初めてお前のこときもいって思ったわ」
「な――――っ」
 千尋の感想としては、どこぞの貿易港みたいな名前のギタリストがどうした、といった感じだ。
 そもそもギタリストなんて、誰がなにを弾いても変わらんだろ、とまで呟いた。
「あんたちょっと、そのいらない耳切断したげるわ」
「なんだよ、音楽とかあんまり知らねえんだよ、悪いかよ!」
「もうそれは世界的な悪ね! 歌で世界を救った人だっているんだよ、わかってんの、ちょっと、ねえ?」
「なんか、ほんときもいぞ、お前」
 千尋の声など耳に入っていない様子で、彼女はまだ続ける。
「まぁ、とにかくね。その人のファーストライブが決まってて、それのチケット、手に入れられなかったのよ。ちょうど夏休みのあいだだから行けるって思ってたのにね…………で、この状況ね。ていうか、あんた何者ですか?」
 流れで気づいたのか、美鈴は机に突っ伏して我関せずを貫く男性に問いかける。
 んあー、と面倒くさそうに起き上がりつつ、片手でキーボードをパチパチと弾いている。あのパソコンのディスプレイには一体なにが映っているのか、気にはしつつ、美鈴はもう一度質問した。
「だから、あんたは一体何者ですかって訊いてるんだけど」
「それにしちゃ何かを訊く態度じゃねーよな。ネコ?」
「あんたは黙ってなさいよ」
「……名前は、針井歩人[はりい・ふひと]。歩く人、でふひと。意味はいつか成る歩のような人に育て、だそうな。両親ともに北島のおじさまの大ファンですとさ。あーい、五百いただきましたー」
「自己紹介しろって言ってんじゃないんだけど……まあ、ある程度はわかったわ。ハリーさん」
「ハリーじゃない、針井だ馬鹿者」
 美鈴が針井をハリーと言った瞬間に、彼は反応した。今までの倦怠的な動作とは打って変わった素早い反応速度だった。
 どうやら、ハリーと呼ばれることがよっぽど気に入らないらしい。
「まぁ、あれだわ。幸と一緒に高校のときに馬鹿やってた悪友っつーかねー。武勇伝は数知れずーってな感じ。あーい、四百いただきましたー」
 どんどん少なくなっていく数字の単位にどことなく現実味を感じつつ、針井が机からなにかを取り出すのを黙って見ていた。
 取り出したものは紙。なんの変哲もない、B4程度のコピー用紙のような紙である。それと一緒にボールペンが取り出され、無言で美鈴に差し出される。
 頭の上に「?」を浮かべつつ、美鈴はその紙とボールペンを受け取った。ただ、これをどうすればいいのかがわからない。
「なに、君ら連絡したらここまで取りに来るの? チケット。それだけでチケット2・3枚分はかかる金額払ってここまでまた取りに来るの? 最初に言ってでしょうに。住所教えてくれたらそこに送るからって」
「……あんた、書きなさいよ」
「なんで俺? チケットはお前のだろ」
「あんたホント耳削げ落とせよ。あんたの名前も聞いてたじゃない」
「だからってなんで俺なんだよ。お前ン家でいいだろ……めんどいなぁ」
「あんたねー」美鈴は呆れたように呟くと、すっと胸のあたりに手を添えながら「私、これでも女なんですけど」
 その台詞を聞いた針井は「オレが犯罪者みたいだからやめてね」と言ってた。だが、美鈴はそれを聞き流す。
「だから?」
「だ・か・ら。私、女の子、あんた、男の子。ほら、あんたン家の方が安全でしょー。それに私一人暮らしだしね」
「えばっていうことか。一人暮らしの方がいいだろ、馬鹿か」
「私は女の子でしょー!?」
「俺ン家は親がいんだろーがボケ!!」
 また終わりのない“いつもの”不毛な言い争いが起きる。
 それが数分のあいだ続き、お互いの息が切れ始めた頃、針井が口を開いた。
「幸の親父さんは警察のお偉いさんだぞ。そんなのにケンカ売るようなことするかよ」
「えっ、そうなんですか?」
「プロフとかでも全然公開してないけどな。すっげ堅物だわ。あとヤーさんともパイプ持ってたりする警察らしくない人」
 千尋にはもうなにがなんだかわけがわからなくなっていた。
 正直港みたいな名前のギタリストなんてどうでもいいし、チケットだって転売したいぐらいだ。と彼は考えている。美鈴がどうしてあれだけはしゃいでいれるのか、よくわからない。
 ……それにしても、と彼はふと思う。
(……あいつのはしゃいでるのなんて、見たことなかった)
 いつもの言い争いもはしゃいでると言えばそうだが、ここまで女の子してるはしゃぎ方は見たことがなかった。若干頬に朱色が混じっているところなんて、本当に――――
「そぉいっ!!」
「な、いきなりなによ、あんた」
「なんでもなーい。なんでもなーいですよ。ほんと何でもない。俺ン家の住所でいいだろ、もう、ほら書くから」
 美鈴から紙を奪ってガリガリと紙面に住所をなぜか「日本」というところから書き始めている。心なしか文字も震えているような気がしないでもない。針井に住所を書き終えた紙を押しつけ、美鈴を引っ張ってその場をあとにする。
 これ以上ここにいたら、どんどん知らない彼女を見ることになる。彼はもはや意地で動いていた。
 最寄の駅前まで戻ってきて、やっと落ち着く。
「あーあ。神戸幸の話、もっと聞きたかったのに」
「そりゃ、すいませんでしたねェ」
「…………、なんであんたが拗ねてんのさ」
「拗ねてねーよ、なに言ってんだ馬鹿」
「馬鹿って言った方が馬鹿だ馬鹿」
「じゃあお前も今から馬鹿決定だ、ちくしょうめ」
 駅前で人も多いのでここで言い争いは終わる。
「そういえば、メシどうすんのさ?」
「メシぃ? どっかそこらへんの牛丼屋でも行きゃいいだろ?」
「別に。あんたなんか考えてなかったのかな、とか思ったから」
「なんだそりゃ」
「なーんでもなーい。じゃあ、あの角のとこ、あれそうじゃないの?」
 言われてみて、初めて千尋はそこにあることに気がついた。
 じゃあ行こう、と二人が絶妙な距離感を保ちつつ並んで歩く。横目には、同じ方向に歩いている他人と見られてもおかしくない距離感である。牛丼屋に入って、カウンター席に座っても、隣に座ることはなかった。ひとつほど席をあけ、別々に注文を受ける。
 運ばれてきたのはほとんど同時。黙々と食べ続け、会計時のこと。
「あ、こっちと一緒ね」
「は? あの、こちらの?」
 店員が美鈴の方を見て確認する。千尋がこくりと頷いても、まだ信じられないのか、美鈴の方も向く。彼女は苦笑いしながら頷いた。ややこしいだろ、と言いたそうな顔だった。店員の方も、なんだコイツラ、と言いたそうな顔で会計を済ませてくれた。
 店外へ出ると同時、後ろから気の抜けた「ありがとうございましたー」が聞こえてくる。おそらく、こんな客はもう二度と来ないだろう。
「……さて、帰るかなぁ」
「これからまた電車かよ……」
 文句を垂れながらも、帰るための手段は電車しかない。タクシーなんて使って料金オーバーでもしたら、光緒に殺されかねない。
 来る時よりも若干多めの乗客にうっとおしさを感じつつ、千尋と美鈴はやはり離れた場所に立っていたり座っていたりする。誰もこの二人が恋人だとか、友達だとか、果ては知り合いだなんて思わない程の距離感だった。
 しかし、降りる駅になればどちらともなく片方に合図をしていたので、他の乗客はびっくりして目を丸くしていたりした。たまたま居合わせて、「あ、居たんだ!」という空気ではなく、お互いがお互いを認識したうえで、無視しているのだ。驚くのは当たり前だった。
 この関係は、他人から見ればありえないものだった。
 
 友達以下、知り合い以上。
 
 一言しゃべりはじめれば、それはそれで友達同士の会話として聞こえるだろう。
 だが、この二人にしゃべり合うような話題はない。あったとしても、それを積極的に行うほど、二人は仲がいいというわけではない。言い争いをしているのは、お互いが気の知れた、知り合いだからだ。もうひとつ言っておけば、適度に“嫌い合う”ためでもある。なんだ、こいつイイ奴じゃん、と思えば、ハッと我に返ってやっぱり嫌いだ、と確認し直す。
 地元の駅まで帰ってきた頃には、日が傾きかけていた。
「はぁ……これから山登んの?」
 美鈴がぼやく。電車に乗って身体がこったのか、くぅっ、とあまり聞くことのないだろう気持の良さそうな声を出しながら伸びをしていた。
「登んの、って、お前絶ェ対自転車の後ろ乗ってくつもりだろ」
「……やらしい」
「はァ!?」
「その、さも当り前みたいな言い方、ほんときもいからやめたほうがいいよ」
「余計なお世話ですよ、もう乗せてやんねーからな!」
「乗せてやんねーからな、だってよ! かはははっ、ほんときもいってそれ。なに、そこいつから私の席になったの?」
 いつもはあんまり干渉しあわなかったから、今になってよくわかった、と千尋は諦めたようにため息を吐いた。それでもケラケラ笑うのをやめない美鈴に向かって、一言。ほんの一言だった。
 
「俺、お前のこと嫌いだわ」
 
 はっきりと、明確な意思をもって千尋は言い放った。
「俺、バイトやめる。チケットはちゃんと渡してやるから、お前はお前で勝手に行けよ」
 これには美鈴もぎょっとした。なにが驚いたって、なにかわけがわからないということに驚いた。
 彼女自身が知らぬうちに、心臓が早打ちを始めていた。
「な、なにそんなに怒ってんのよ。ちょっとした悪ふざけっしょ? 今までもこんなのあったじゃん、なにいきなり、やめるとか、ちょっといきすぎでしょ?」
「なんでお前がそんなに慌ててんだよ。いいだろ、別に。お前のぶんの配当上がんじゃねーの?」
「バイトとか、じゃなくて、あれぇ? いや、あんさ、えっと、ほら……あれだよ、あれ」
「どれだよ」
「えっと、そう! 私の負担が増えるじゃないのよ。やめんなって。それに、ほら、金! お金欲しくないの? 今やめたらぜってー安いはした金しかもらえねーって絶対」
「金は欲しいけどさ」呆れながら、千尋は言い切る。「お前が嫌だから」
 ここにきて、美鈴は本当に言葉を失った。しばらく黙ること、千尋が自転車を持って来るまで。
「あっそう。んじゃ、やめりゃいいじゃん」さっきまでの粘着はなくなり、あっさりとした言葉だった。「やめりゃいいじゃん」
「そうする」
 チキチキと自転車のチェーンの回転音がやけに大きくて耳に障る。
 そのまま店までお互いに無言を貫いていた。千尋は無言で自転車を押し、美鈴は煙草を咥えながら彼のあとを他人の距離で歩いてついていく。
 学校の前に来ると、空がすっかり茜色に染まっていた。
 校門からは夏休みの部活を終えた生徒が下校していく様がチラホラと見える。
「…………」
「…………あんさぁ、あんた」
「……なんだよ」
「私とさー、いるのってさー、そんなにさー、嫌?」
「……うぜえ」
「…………じゃあさー、もっかい訊くけどさ。朝の、あれはどうなん? あのまま私が本気でさー、付き合おうとか言ってたら、今みたいになってたりしたらさー、あんたはさー、我慢とか、したの?」
「我慢しねえ、かもしれねー。んなの知るかよ。もしもだろ。お前あれ、からかってただけだろ」
「ほんっとあんたなんにも覚えてない」
 少しでも話したからか、店までの道のりが短く感じた。
 千尋は店の端に自転車を置くと、見慣れないバイクが置いてあるのを見つけた。首をかしげながら、美鈴に続いて店内に入っていく。
 おかえり、と軽い調子の光緒の言葉。店内を見回しても、客は見当たらなかった。
「店長ー」
「なんやー」
「表に停めてたバイクって店長のっすか?」
「ちゃうよ。高校大学って世話ンなってた先輩のやつ。今来てもろてんねん」
「彼氏?」
「ぶっ、あっはっはははは!! ないない、あの人彼氏ンするんやったらお前彼氏にするわー」
「そりゃ酷い話だね、光緒」
 ぎょっとして光緒が固まる。店内の奥から現れたのは、少し背の高めの男性だった。歳は30前半といったところだろうか。
 美鈴ほどではないものの短い癖っ毛で、目は開けてるのかよくわからないほど細い。はて、と美鈴が男性の顔を見て首をかしげる。
「どっかで見たことある気がする」
「雑誌とかじゃないかなぁ。僕、こういう者です」
 どうぞ、と美鈴に名刺が渡される。そこにはこう書かれていた。
 ――――インテリアデザイナー 榊原 実[さかきばら・みのる]
 他にも所属している事務所や、個人的な、おそらく仕事用のメールアドレスと電話番号などが書かれていた。
「建築士志望やってんけどな、何の因果かそんな職についておられんねんで」
 皮肉っぽい光緒の補足説明。
 それに対して、榊原は笑ってるかどうかがよくわからない顔だった。
 それがどうしてこんな喫茶店ともわかりづらい喫茶店を見ていたりするのだろうか、と千尋は本気で考えた。
 昔のよしみとはいえ、それはあまりにも横暴ではないだろうか。店長が。と声には出さず美鈴は本気で考えた。
「えーっと、改築でもするんですか?」
「まぁ、そないなとこかな。そんなに言うほど資金ないから、こうして先輩に来てもろて、合いそうな雰囲気のインテリアを見繕ってもろて、ほんで、いらなさそうなヤツはリサイクルショップにでも売りに行こうかと」
 廃棄しないところが光緒らしいといえばらしかった。
 それくらいならこちらのバイト代にも響かなそうだなー、と他人事のように美鈴は考える。それに千尋もやめると言っている。増えること間違いないはずだった。
 と、千尋がいよいよ切り出した。
「あの、店長。バイト辞めます」
「…………ちょっと表出て正座して待っとこか、千尋君。すぐに包丁研いで持ってってあげるさかいに。んで、エンコ詰めな」
「ヤクザかよ!?」
「うちの知り合いにはヤクザの一人娘とかリアルにいるから」
「あ、嘘みたいに聞こえるけどホントね。僕とも知り合いだし」
 どんどん洒落にならなくなってきた、と彼の額に玉のように汗が浮き上がってくる。
 それに、と光緒がつけたした。
「改装するっつってっしょ? 男手がいんねん、男手が。いいところ見せてみっちゃん惚れさせたらええねん」
 何言ってんだこのババア、とは口には出せない。
「みっちゃんって言うな」
「ええやん、カワエエて、みっちゃん」
「いやよ。なんか安っぽいし」
「おーい千尋ー。この子こんなん言うてるでー」
「俺が知るかよ」千尋は改めてため息を吐きながら、もう一度訊いた。「辞めてもいいんですか? ダメなんですか?」
 それに対して光緒は頭を掻きながら答えた。
「奮発するからさ、な。夏休みの間は辞めんといてや?」
「…………別に。店長がいうんだったら」
「おおー。このっ、憎いねー。みっちゃん辞めへんねんて、千尋」
「なんで私に振るかな。辞めようが辞めまいがそいつの勝手でしょうに」
 くしゃくしゃの髪の間から千尋を覗き見る。
 ぶすっとしている彼は、彼女にはどことなく嬉しそうに映った。
 
 夏休みは、まだ続く。
 
 
 
 
 
 

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Author:草之 敬
ブログは若干放置気味。
『優星』の完結目指してラストスパート中。
 
現在は主に一次創作を書いて活動中。
過去作を供養する意味もあって、いい発表の場はないものかとネットをさまよっている。

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