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2012-12

その優しい星で…  Navi:45

 
 春を迎えたネオ・ヴェネツィアには、数日前からとあるポスターが貼り出され始めた。
 それが貼り出される前から街全体が浮足立った陽気を湛えていたが、そのポスターの登場を皮切りに期待と興奮の坩堝と化した。
 
『海との結婚』
 
 この祭典も例にもれず、元はマンホームのヴェネツィアで行われていたものだ。
 毎年行われているカーニヴァルと並び、ネオ・ヴェネツィアの象徴的な祭典と言っても過言ではない。
 この『海との結婚』は古くはマンホーム、中世より続く荘厳な観艦式の様相を交えて行われる式典だ。
 そもそも観艦式とは、1341年、英仏の百年戦争最中、イングランド王エドワード3世が出撃の際、自軍艦隊の威容を観閲したことに起源が置かれている。味方の艦隊を観閲することにより軍の士気を高め、国民や有効勢力へと自国の強さをアピールすると共に、敵勢力への牽制――示威行為をすることが主な目的となっていた。
 現在、と俺が言うとおかしなことになるが、つまりは俺がもといた時代、20世紀後期から21世紀初頭にかけて、自国の強さを示し、敵国へとプレッシャーをかけていた観艦式は大きく変化する。
 他国からも艦艇を招き、国際親善や防衛交流をすると共に、自国民の海軍に対する理解を深めていくことが主な目的になったのだ。つまり、他を圧倒する剣としてではなく、手を繋ぐためのかけ橋となったというわけである。
 こちらは1897年、イギリスのビクトリア女王即位60年祝賀の際に挙行されたものが基になっている。
 
 退屈な話で申し訳ないが、もう少し昔話に付き合ってほしい。
 そもそも『海との結婚』とは、1000年頃、ピエトロという総督がダマルチアを征服した頃に確立されたという話だ。
 この頃の海との結婚は「海を渡る誰ものために、海が穏やかでありますように」という祈りを捧げ、総督たちに聖水がふりかけられたあと、聖歌隊が歌をうたうなか、残りの聖水が海へとまかれるというもので、「指輪を海に投げ入れ、海との結婚を誓う」というキリスト教的な儀式も意味合いは持ってはいなかった。
 ではいつからそうなったのか。1117年にヴェネツイアが神聖ローマ帝国、フリードリヒ1世争ったことへの感謝のしるしとして、教皇アレクサンデル3世が自分のしていた指輪をヴェネツイア総督に与え、毎年指輪を海へ投げ込むよう言ったことが始まりとされている。これ以降からこの儀式は戦いへの慰撫のような意味合いから、〝結婚〟という形へと変わったということだ。
 
 とはいえ、ネオ・ヴェネツィアに海軍がなければ、もちろん艦艇があるわけでも、争いがあるわけでもない。
 ネオ・ヴェネツィアにある舟といえば、言わずもがな〝ウンディーネ〟の繰るゴンドラである。
 蒼然と煌めく海面を、粛々と美しい隊列を組み、華やかなウンディーネたちが舞うように滑っていくのだ。
 
 そして、過去の『海との結婚』同様にヴェネツイア総督――今ではゴンドラ協会理事長らしい――が乗り込むガレー船、ブチントーロが登場し、指輪を投げ入れ海との結婚を誓うという流れで進行されるということだ。
 
「ふむふむ。でっかいありがとうございます、士郎さん」
「いや、こんなことでいいならいつでも聞いてくれ。もうほとんど趣味みたいなもんだしな」
 
『海との結婚』についてレポートをまとめよ!
 ――という宿題がアリスのミドルスクールから出されたらしい。実に教育機関的、かつ旬な話題を使った宿題だと感心する。
 メモとボイスレコーダーを鞄に直し、珍しく制服のままのアリスはいそいそと帰り支度を始める。少し冷め始めた紅茶で喉を潤しながらその様子を横目で見ていると、何事かを訴えるような、アリスのかすかな視線を見つけた。
 
「どうした。まだわからないところがあるのか?」
「えっ? あっ、いえ、でっかいそういうことじゃ……」
「そうか? ならいいんだけど」
「………………」
 
 バレた? と視線で問いかけてくるアリスを無視しつつ、彼女の行動を見守る。
 片付けの手は進むほど緩慢になり、俺に向ける視線の回数も徐々に増えていく。
 
「あ、あの、士郎さん?」
「うん?」
「し、失礼かと思いますが、よろしいでしょうか?」
「まあ、俺が答えられる範囲でなら」
 
 意を決したようで、アリスは片付けの手を止め、俺と向き合った。
 あの、その、とまだ言葉にし切れず、なぜか顔を赤くしたり青くしたりを繰り返している。
 嫌な予感と、そして。
 
「『アリシアの指輪は?』って、アテナ先輩経由で晃さんが……」
「う、ぐ……」
 
『海との結婚』を間近に控え、ネオ・ヴェネツィアのアクセサリーショップやジュエリーショップはポスターの貼り出しと時を同じくして『海との結婚キャンペーン』と称して指輪を売り捌き始めているのだ。
 身近な男――父親などだ――から貰うのがならわしということだが、恋人から贈られたモノがベストだと暁が言っていたのを記憶している。現に、紆余曲折はあったが灯里は暁から、藍華は順当にアルから、アリスはいつのまにかナットらしき――というかどう見てもナットな指輪を指に嵌めている。
 晃やアテナも、それぞれの会社の重役から贈られた指輪を嵌め、準備は万端。
 
 ――アリシアを除いては。
 
「一応、理由はあるんだぞう?」
「それは――、灯里先輩が言ってたんですけど、最近よそよそしいのと関係あるんですか?」
「いや、まあ、灯里によそよそしいわけじゃないんだけどな。隠し事ってのは反射的によそよそしくなるもんなんだよ」
「それはまあ、わかりますけど……」
 
 以前、といってももうアクア歴で一年近く前――地球歴で二年弱――にグランマ……、母さんのところに行ったとき、俺が創り出した守護石が関係してくる。
 サードニクス然としたその宝石は、今も俺が持っていて、予定ではとっくに加工が完了しているのだが……。
 
「でっかい隠し事って言っちゃってますね」
「あ」
「でも、士郎さんのことだから、渡さないなんてことはないと思いますが」
「そ、そりゃもちろん。必ず間に合わせる」
「わかりました。晃さんにもそう伝えておきます」
「ああ、そうしてくれ。ありがとうな」
 
 片付け終わった鞄を抱え、アリスが出入り口のドアノブへと手をやり、しかしそこでピタリと動きを止めた。
 どうした、と声をかけるまでもなく振り向き、アリスはその顔に意地の悪そうな微笑を浮かべていた。
 
「晃さんからですけど」
「まだあるのか。……まあ、あるよな」
「はい。――『いい加減アリシアが士郎さん士郎さんってうるさい!』だそうです」
「それは俺のせいじゃないだろ。ていうか、アリスも笑うなよ!」
「ごちそうさまです、士郎さん」
 
 そう言うなり、アリスは逃げるように帰ってしまった。
 その後姿を見て、なんだかんだで感情表現が豊かになってきたよなぁ、と保護者のような心境になる。
 問題は、周りがせっつくほどアリシアが落ち着いていないか、ただ俺のケツを蹴っ飛ばそうとしているだけなのか。
 ともかく、間に合わせるなんて悠長なことを言ってる場合ではなく、できるかぎり早く完成させなければならないか。
 
 ――そうはいうものの、自分で創っておきながらコイツがなかなか難しい。
 研磨は問題なくできる。が、これまで投影や強化といった魔術をこなしてきたおかげで完成図までの工程を想像し創造することは容易いのだが、いかんせん、物理的な〝完成させる技術〟が俺には欠けていた。
 もちろんその欠点には去年の時点で気がついていた。だからこそ、俺はこの一年をかけてちまちまと銀細工などを作ることを勉強してきていた。今ではそれなりに納得のいく作品が作り上げられるほどになってきており、指輪も問題なく作り上げられることができると思っていた。
 
 だがそれは、慢心と言うほかなかった。
 というよりも、簡単に納得できるようなものを贈りたくないという意地もあったと思う。
 思考錯誤を重ね、ない才能やセンスを絞り出し、つい先日ようやく完成図が完成したばかりだ。
 驚かせたいなんていう欲張りまでし出してしまったので、みんなから隠れるようにちまちまと進めていると、こうやって周りに心配されるほど遅れてしまったというわけだ。
 
 あともうひとつだけ理由があるとするなら、俺が作っている指輪がひとつだけではないこと。
 もちろん、他の誰かに渡すつもりで作っているわけじゃない。と言いつつ、途中まで灯里にも作ろうと予定していたのが、暁の転んでもただでは起きない精神で作業数がひとつ減って内心助かっていたのだが。
 
「さて……」
 
 さっそく作業を再開することにする。
 もう時間はない。
 
 
 *  *  *  *  *
 
 
「お前はどう思う、藍華」
「何って、なにがですか」
「衛宮だよ。あいつ指輪渡す気あるのかね?」
「そりゃあるでしょう。晃さんが心配するまでもなく」
「じゃあ、なんでまだ渡してないんだ? もうそろそろ良いヤツは売り切れちまうぞ」
 
 自分の指に嵌った銀色に輝く指輪を仰ぎながら、晃さんはそう言う。
 とはいえ、その指輪に深い感慨を覚えているわけではなく、ただそこにあるものを眺めているといった風だ。
 
「羨ましいんですか?」
「あん?」
「いや、なんかそんな顔してましたから」
「羨ましいって、そんなわけないだろ。そもそも私、今は仕事が恋人って寂しい人間だもん」
「ああ……」
 
 これは、羨ましいっていうよりも、寂しいんだろうな。
 晃さん含め、水の三大妖精の三人は幼馴染だ。特に晃さんとアリシアさんは付き合いが古くて、それこそ親友という言葉が追いつかないくらい仲が良かった。それは今でも変わらなくて、しかもそれが三人掛け合わさってさらに仲よりトリオになっている。その一人が今まさに色恋にうつつを抜かしていると言ってもいい状態――と思ってるんだろうなあ。
 
「全然羨ましくない! いいか、私はな、全っ然、羨ましくなんかないんだからな!!」
「はいはい。わかってますよ、晃さんは全然羨ましいなんて思ってないんですよね」
 
 もしかして酔ってるんじゃないか、と思うくらい意地になってる。
 羨ましいんじゃなくて、寂しいんですよね。――その寂しさを埋められないことにちょっとだけチクン、と胸が痛む。
 時間だけで見れば私はアリシアさんにもアテナさんにも敵わないけど、それでも負けてないと思えるくらい仲が良いと思ってたんだからちょっとくらいいじける権利もあろうというものなのだ。
 
「……それにしても、なあ」
「はい?」
「いや、なんというか、いつもアイツは私の一歩も二歩も先を歩いてんだなって今さらながらに思うとな」
「アリシアさんに勝とうなんて百万年早いですよ、晃さん」
「すわっ!! お前、自分の先輩庇わないってどういうことだ、ええ!?」
「いだだだだだだ!?」
 
 でも、と痛みの端で考える。
 こうやって私に愚痴こぼしてくれるっていうのは、もしかしたらもしかして、頼られてるのかなと思ってみちゃったり。
 
「うう、ひどいですよぉ」
「どっちがひどいんだよ。……なあ、藍華」
「はい、まだほっぺが痛いです」
「それはどうでもいい。最近よく感じるようになったんだがな――」
 
 晃さんはそれ以上を言おうかと戸惑っている様子だった。
 じっと窓の外を眺めながら、開きかけの口を所在なげにパクつかせている。
 と、視線だけをこちらに向けると、大きくため息を吐いて頭をガシガシと掻いた。
 
「終わりだな」
「はい?」
「終わりだなって、感じるようになった」
「え、は? あ、あの、それって引退宣言、ですか?」
 
 言いようのない空虚な感覚に襲われ、胸元をぎゅっと握りしめる。
 さっと顔から温かさが抜け落ちて、ぞくりと悪寒が背筋を走り抜けていく。
 
「馬鹿言うな。私はまだまだ現役バリバリだっちゅー、のっ!」
「あだーッ!?」
「……だからそんな情けない顔すんじゃない」
「……ふぁい」
 
 そういう意味じゃないとわかっても、心にしこりが残っている。
 まだ拭えない不安を抱えながら、晃さんの話を待つ。
 
「アリシアと衛宮が恋人になったときから感じてたんだ。終わりだなって」
「…………はあ」
「別にあいつらの前途が多難だとかいう意味じゃないからな」
「物語でいうところのエンディングみたいな?」
「そういうのとも違うな。なんていうか、こう、今日と明日は違う日なんだって感じ?」
「意味わかりません」
「うん。私も意味わかんないな」
 
 あはは、と微妙な顔で笑う晃さん。
 でも、そう言われてみれば、なんとなくわからないでもないような気がする。
 ミドルスクールの卒業式が終わってから、何が変わったってわけでもないのに、無性に寂しくなったあの感覚。
 この日がずっと続けばいいと思っていた私と――、
 ――この日はもう二度と訪れないと思った私。
 
 晃さんの言いたいことは、つまりそういうことなのだろうか。
 いや、私もよくわかってないんだけどね。
 
「ま、いいか。時間もちょうどいいし、仕事に戻るかなーっと。藍華もしっかり練習しとけよ。本番とちったら、お前、アレだ。一ヶ月間この部屋の掃除押し付けるからな」
「ちょっ、そんな殺生なぁ……!」
「そう思うんならしっかり練習しろよ。それじゃあな!」
「そんなあ……」
 
 相変わらずの様子に戻ったのはいいけど、ここまで容赦なくプレッシャーをかけなくても……。
 まったく、もう。
 
 
 *  *  *  *  *
 
 
「たとえば、アリスちゃんと明日から別の部屋になる、ような感じかな」
「うぅん……。それはなんだかでっかい落ち着きませんね」
「でしょう? そんな感じなの」
 
 士郎さんの近状を簡単に説明すると、アテナさんは続いて「なにかが終わっちゃう感覚」があるとかないとか話し始めてしまった。
 よくわからないから、わかりやすく例えてくださいと頼むと、さっきの例が返ってきたわけです。
 でもそれは、終わるというよりも〝変わる〟と言った方が適切な気がしないでもない。
 
 いつかくるかもしれない可能性。
 
 それは終わり? 始まり?
 でっかいわかりません。
 
「部屋が変わるのは私も嫌だけど、けれど、今感じてるこれはきっと、いいものだと思うの」
「……そんなこと、わかるんですか?」
「う~ん、ただの勘、かな」
「アテナ先輩の勘はあんまりアテになりません」
「ええっ」
 
 だけど、アテナ先輩の言うことは信じたい。
 それが弟子心というか、後輩心というか。まあ、恥ずかしくて面と向かっては言えないんですけど。
 
「うう……。あ、そ、そうだ。アリスちゃん、もうすぐミドルスクール卒業式だね」
「そうですね。でっかいようやくウンディーネに専念できます。楽しみです」
「みんなには――灯里ちゃんや藍華ちゃんにはもう言ったの?」
「……言ってません」
「あれ、どうして?」
「だって、わざわざ教えるようなことじゃないじゃないですか」
「そうかな?」
「そうなんです」
 
 来てほしくないわけじゃない。
 来てくれたら、それはそれで嬉しい。
 けど、そうやって「来てください」と頼む、素直な自分が想像できない。
 こんなことですら素直になれない自分が、なんとも情けない。でも、その意固地さが自分らしいような気もして、なんだかモヤモヤする。アテナ先輩に相談すれば、きっと「どっちもアリスちゃんだよ」なんて、私を煙に巻くような、慰めるような、励ますような言葉で諭してくれるのかもしれない。
 
 私らしい……、か。
 そんな風に悩むなんて、昔の私からすれば考えられないことなのかもしれない。
 そういう風に自分を考えられるようになったのは、不思議を呼び込み見つけ出すぽややんとした灯里先輩と、しっかりしているようで私よりも抜けてる藍華先輩の――おかげと思いたい部分と、思いたくない部分がある。
 そんな私の変化を見守ってくれていたアテナ先輩やアリシアさん、晃さん、そして士郎さん。
 もちろん、各社のかわいい社長たちにもお世話になった。まぁくんとの出逢いなんかは、きっと私の中で大きな分岐点になっているはずだ。
 
 ――ああ、そうか。
 これが「終わる」って感覚。
 前に進むために、今このときの変化を受け入れるということ。
 
 今日の日に、さようなら。
 いつか昔の私を微笑んで見守れるようになる、その日まで。
 さようなら、今日の私。
 いってきます、明日の私。
 
 
 *  *  *  *  *
 
 
「呼び出しておいて遅れちゃったな」
「あ、士郎さん」
 
 大きめのキャスケットの中に稲穂のような金髪をまとめ、強めの度の入った太縁眼鏡をかけて顔を隠しているアリシアがちょこんと噴水のふちに腰かけていた。
 それに声をかけると、彼女は弾けた笑顔を浮かべて立ち上がる。
 頭一つ分小さな彼女がくるりと踊って、俺の右腕におさまる。白のアランセーターにストールを羽織り、薄鳶色のロングスカートという地味目な格好だが、黒シャツに白のカーディガン、黒スラックスと輪に掛けて地味な俺が言えることではない。
 しばらく並んで夜のネオ・ヴェネツイアを歩き、時間が近付いた頃に予約を入れていたレストランへ向かう。
 それほど高級な店舗というわけではなく、ほどほどに肩の力が抜けるカジュアルな雰囲気の店を選んでおいた。
 
 の、割にアリシアがそわそわしているのは、きっと間違いじゃない。
 おそらく、わざわざ俺が「食事に行こう」と誘った意図を理解しているのだろう。
 帽子を脱ぐと、髪はアップにしてまとめられていた。ウェイターが来るも、さいわい彼女がアリシアだということには気付いていない様子だった。
 
 コース料理が出てくるような高級店ではないので、メニュー片手に軽食とアルコールを注文する。
 どれだけしても飽きない世間話をしばらく続け、届いた料理やアルコールに舌鼓を打ちながらも話し続ける。
 会話にも食事にも一区切りついたか、というところだった。
 
「あの、士郎さん」
「うん?」
「相談したいことがあるんです」
「ああ」
 
 こくりと肯ずり、アリシアの話を促す。
 数秒ほどタメを作ってから、アリシアは胸の内を吐露し始めた。
 
「アリスちゃん、もうすぐミドルスクールの卒業式なんです」
「つい先日も『海との結婚』のレポート書くって言ってたけど、卒業研究かなにかかな」
「……ゴンドラ協会は今、アリスちゃんの卒業を待っています」
「と、いうと、シングル昇格試験か」
「はい。でも、それだけじゃないんです」
 
 それだけじゃない?
 ……よくよく考えてみれば、アリスは――身内贔屓ではなく――シングルトップクラスのウンディーネである灯里や藍華と並んで練習に励んでいるわけだ。ペアウンディーネとすれば破格の実力を持っているといっても過言ではない。
 そもそも、シングル昇格試験に限らずプリマ昇格試験もゴンドラ協会が厳密に管理しているわけではなく、受験者であるウンディーネの直接的な先輩プリマウンディーネが資格充分と判断すれば昇格できるシステムだ。
 
 つまり、アリスのことでゴンドラ協会が〝待っている〟という表現は少しおかしい。
 より正確にいうならば『アテナが待っている』になるはずなのだ。
 とすれば――。
 
「アテナがアリスのことでゴンドラ協会に何か申請したのか?」
「さすがです。もう半年以上前から協議が重ねられてきたのですが、グランマの鶴の一声で正式決定がつい先日下されました」
「母さんまで出張ってくる問題なのか……」
「はい。もちろん、反対派もいましたが、主にアテナちゃんが納得させたんですよ」
「あのアテナが! 言っておきながら何だけど、さすがってところか。アリスのこと、ずっと見守ってきてたからな」
「――それで、その決定された内容なんです、が」
 
 静かに言い淀んだ後、アリシアは胸の前で拳を握り、瞼を閉じ、深呼吸を挟む。
 
「シングル昇格試験を無事合格すれば、アリスちゃんのプリマへの飛び級昇格を認めるというものです」
「――それは、すごいな」
 
 思わず息を飲む。
 最年少プリマ昇格記録を持つアリシア。
 最年長現役継続記録を持つグランマ。
 もしかすると、飛び級によるプリマ昇格はこの二人に並ぶ伝説になるかもしれない。
 
「はい。前代未聞の例外中の例外です。でも、私はそこに異議を持ちません。アリスちゃんはその例外に当て嵌めるべき実力を持っていると知ってますから。――けれど」
「……そうなると、あの三人娘のなかで一番の後輩がプリマ一番乗りすることになる。灯里がそれを気にしないか、落ち込まないか、焦らないか、情熱を失ってしまわないか。だからといって、私自身が焦るようにプリマ昇格試験をしていいのか、あたりか。相談ってのは」
「あ、はい」
 
 そんなに弱気にならなくてもいいだろうに。
 まあ、そんな弱気なところを見せてくれるっていうのは、嬉しいもんだ。
 きっと、アリシアの中ではもう答えは出てるんだろう。けど、不安で不安でしかたない。心配で心配でたまらない。
 
「アリシアが灯里の成長を知らないわけはないよな。あいつはもう、その実力を持っている。あいつだけの魅力を、もうずっと前からみんなに振りまいている。そして何より、あいつは〝今の生活を心から楽しんでいる〟。アリシアも、そうなんだよな?」
「灯里ちゃんには、士郎さんからも経営方法を教えていただいたこともあって、ARIAカンパニーを任せてもいいくらいに成長してくれました。ウンディーネとしての実力も、申し分はありません。――私が、今一歩を踏み出せないだけなんです」
「いいじゃないか、別に」
「え?」
「こういう生活を望んでいるのなら、アリシアはそれを望み続ければいい。なにも悪いことじゃない」
「そんな、それは、そう、ですけど」
 
 わかっている。アリシアはそれを本心から望んでいるわけじゃないってことくらい。
 でなければ、こんなに苦しまない。罪悪感に塗り潰された顔をしない。
 俺も気付いてやれなかった葛藤を、彼女はずっと胸の内に抱えていた。
 
 まったく、俺も不器用は直らないんだから。
 
「これ、遅くなってごめん」
「これは――」
「『海との結婚』用の指輪だ。作ってたら、遅くなった」
「作ったって……手作りなんですか、これ!?」
 
 とてもそうは見えないです、とアリシアは手の平の上に置かれた指輪をまじまじと眺めた。
 会心の一品と胸を張って言えるようになるまで、こんなにかかっちまったけど、喜んでくれてるなら俺はそれでいい。
 さて、ここからが肝心だ。
 
「……俺は、アリシアと出逢えて本当に良かったと思ってる」
「え?」
「正義の味方になるって躍起になって、幸せを守るんだって迷走して、どうしても認めたくなくて、どうしても諦めたくなくて、けどそんな俺の傍に、いつもみんながいてくれた。灯里も、藍華も、アリスも、晃も、アテナも、暁にアル、ウッディー、アイナに、アイラ、アントニオ。――そして、アリシア、お前だ」
「そんな、私はただ……」
「うん。ただ傍にいてくれただけで、俺は救われたんだ。お前の立ち振る舞いに、いろいろ気付かされたんだよ」
「は、う……」
「アリシア・フローレンス。俺が出逢った人。俺の繰り返しに終止符を打ってくれた人。この世界の重力に気付かせてくれた人。俺は変わることが恐ろしかった。変わっていく自分が我慢ならなかった。だけど、今こうして、アリシアに俺の胸中を告白することができるくらいには変わることを受け入れ、前に進むことができた」
 
 懐から、もうひとつの指輪が入った小箱を取り出す。
 ありふれたその小箱の形を見た瞬間、アリシアが「あっ」と息を飲むのがわかった。
 
「だからきっと、大丈夫だ。今すぐ変われなくてもいい。お前が抱える苦悩や葛藤を、俺は笑顔で受け入れよう。お前が道を踏み外すようなことがあれば、俺が戒め諭そう。灯里とお前には、踏み出すべきタイミングがある。――そうさ、望み続けることは悪いことじゃない。誰が好きなんて感情は、突き詰めれば究極のわがままなんだと、俺は思う。離れたくない、一緒にいたい、それはとても自然な欲求だと思う」
 
 アリシアの瞳が、快晴の日の海面のように煌めく。
 彼女から溢れだした涙はきっと、俺の気持ちが伝わったからだと思いたい。
 
「士郎さんは、優しすぎます」
 
 震える声を精一杯のあたたかさで包んだ言葉だった。
 俺の胸を打つ、あたたかな響きだった。
 
「お人好しだって、昔はよく言われたよ。――なあ、アリシア。お前は感じていたか? 俺たちの世界がひとまずの終わりを迎えようとしていることを。けど、ゴールじゃないんだ。新しいスタートが見えただけなんだ。でもそれも、よーいドンで、みんなで歩きだす必要なんてない。置いて行かれたって不安は不要だ。お前の隣には、俺がいる」
「――はい」
「灯里の隣にも、お前がいてやればいい。そうすれば、足並みは不思議と揃うもんさ。誰が最初で誰が最後でなんて、悩む必要はないんだ。新しいスタートに、俺たちが慌ててるだけなんだ。しっかりと歩こう。しっかりと手を繋ごう。しっかりと、前を向こう」
 
 静かに、小箱の蓋を開ける。
 店内のあたたかな照明を受け、紅縞瑪瑙のような宝石が艶やかに輝きを放つ。
 精緻にカッティングを施されたそれを戴き、銀の輝きを湛えるリングが支えるように閃いた。
 
 
 
 
「俺と、結婚してくれ。アリシア」
「――はい。結婚しましょう、士郎さん」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                Navi:45   end
 
 
 
 
 
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テーマ:自作小説(二次創作) - ジャンル:小説・文学

コメント返信

ということで、草之です。
『優星』最新話のコメントをこちらで返していきます。
 
 
また、『優星』ですが、
来年中に完結まで持っていきたいと思っています。
例によって約束するまでには至りませんが……。
 
来年を含めると足掛け五年という年月をかけた本作にも、
今回のストーリーでエンディングが見え始めました。
すなわち、原作最終巻の時系列への突入ということです。
 
とはいえ、正確には11巻分の話はまだ書き切っていないので、
呼称をつけるとするなら『最終章』と言ったところでしょうか。
 
最終章突入! って書くとなんだかバトル漫画みたいですね。
優星に関しては以上です。
 
 
拍手・web拍手・コメントすべてこちらの追記で返しますので、ご注意ください。
それでは、良いお年を!
 
草之でした。
 
 
 

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テーマ:物書きのひとりごと - ジャンル:小説・文学

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Author:草之 敬
ブログは若干放置気味。
『優星』の完結目指してラストスパート中。
 
現在は主に一次創作を書いて活動中。
過去作を供養する意味もあって、いい発表の場はないものかとネットをさまよっている。

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